ジョルジュの映画感想

どんな映画でも自分の見たことのない世界へと連れて行ってくれる。そんな映画を見て感じたことを書いていきます。

『女王陛下のお気に入り』

About the film
・原題: The Favourite
・製作: 2018年/アイルランド・イギリス・アメリ
・上映時間: 120分
・監督: ヨルゴス・ランティモス
・出演: オリヴィア・コールマンエマ・ストーンレイチェル・ワイズ

 


『女王陛下のお気に入り』予告編

 

女王の寵愛めぐる戦い

女王陛下のお気に入り』は2019年2月24日(アメリカ現地時間、日本は2月25日)に発表される第91回アカデミー賞に『ROMA/ローマ』と並び最多10部門にノミネートしている作品。監督は『ロブスター』『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』のギリシャ生まれの鬼才ヨルゴス・ランティモスです。この監督の名前はツイッターでよく見かけますし、フォローさせていただいている方の映画批評には「この監督作品に外れなし」とまで書いてあったりします。「面白そう!見たい!」と思いつつ、芸術的で難解な映画のような感じがして、身構えてしまい…。見ないまま時が流れてしまいました。なので、この『女王陛下のお気に入り』が初めて観るヨルゴス・ランティモス監督作品になります。

 

18世紀イングランドの王室を舞台に、アン女王(オリヴィア・コールマン)の寵愛をめぐり二人の美しい女性、レディ・サラ(レイチェル・ワイズ)とアビゲイルエマ・ストーン)は敵意をむき出しにして争い合います。その国の最高権力者の寵愛をめぐり女性同士が争い合うというのは日本人には馴染みのあるお話かもしれません。『源氏物語』の第1帖「桐壺」では、源氏の母親(桐壺更衣)は帝(桐壺帝)のお気に入りになってしまったために、他の宮中の「やんごとなき」女性たちに執拗な嫌がらせを受けていました。例えば、帝に会いに行けないように廊下に汚物をばらまかれたことが挙げられます。

 

また、テレビでドラマ版大奥シリーズを幼いころから好んで見ていた者としては、『女王陛下のお気に入り』に大奥の魅力を見出してしまい、この映画を大いに楽しむことができました。ドラマ版大奥の魅力、それは美しい女性たちと最高権力者によって紡がれる複雑な人間ドラマにあります。そして、その人間ドラマを構成しているのが「美しい女性たち」、「知性や美貌を武器にして生き抜く姿」、「愚かで性欲にまみれた可哀そうな最高権力者」です。

 

①美しい女性たち
アビゲイルは可憐でスウィートな美しさ。レディ・アンは近寄りがたい高貴な女性らしい上品で端正な顔立ちのクールビューティー。『大奥〜第一章〜』(2004)のお江与高島礼子)や『大奥~華の乱~』(2005)の右衛門佐(高岡早紀)が好きな僕としては、レディ・アン推しです。ちなみに、レディ・アンを演じたレイチェル・ワイズは今年で49歳!!アン女王のオリヴィア・コールマンよりも4歳上になるそう。驚きです。

 

②知性や美貌を武器にして生き抜く姿
女王陛下のお気に入り』でそれを爆発させていたのがアビゲイルでした。一歩踏み間違えれば、再び路頭に迷うという地獄が待ち受けているので当然です。大奥ではお伝の方(『大奥~華の乱~』(2005)で小池栄子が演じていた役)ポジションになるのでしょうが、もっと冷静で賢いです。アン女王の前では何も求めない愛らしい淑女アビゲイルを演じながら、アン女王の目の届かぬところで根回しをして欲しいものを着々と手に入れていく腹黒女アビゲイル。視力だけでなく、人を見抜く眼力という意味で「目が悪くなっている」アン女王には彼女の真意を見抜けません。エマ・ストーンの女優としての力を見せつけられました。しかも、この映画では監督から脱がなくても良いと言われていたそうなのに、脱いじゃっています。

 

③愚かで性欲にまみれた可哀そうな最高権力者
ドラマ版大奥に出てくる権力者は愚かで性欲にまみれているので、周りの女性と関係をもっては彼女たちの運命を狂わせ破滅させてしまうことがあります。他者からの無償の愛を求めてはいるものの、周りの人物を不幸にするばかりで誰からも愛されることのない悲しい運命をたどることになることが多いです。権力があるから周りの人間が自分を求めてくれるだけであって、権力がなければ自分を求めてはくれないのだという不安が常に襲いかかってきます。アン女王もまた相手が自分のことを本気で愛してくれているかどうかを試してしまい、女性たちの運命を狂わせてしまいます。

 

ドラマ版大奥の魅力である「美しい女性たちによる複雑な人間ドラマ」を見せてくれる『女王陛下のお気に入り』ですが、映像の美しさと演出のうまさが素晴らしいです。映像の美しさを最も感じたのは、蝋燭の明かりのみで撮影されたシーン。アビゲイルがレディ・サラの秘密を目撃する前のシーンで、画面いっぱいに広がる闇に蝋燭でアビゲイルの顔がぼんやりと照らし出されるカットには絵画のような美しさがありました。また演出に関しては、ドラマ版大奥が過剰ともいえるほど分かりやすくドラマチックに視聴者の感情をあおる演出が多いのに対して、『女王陛下のお気に入り』は考えなければ分からないような不可解な行動や演出が多いです。分かりやすく濃く味付けされたドラマ版大奥も好きなのですが、映画としては観た後に引っかかりが多く残る『女王陛下のお気に入り』も好き。まだ理解できていないところもあるので、ゆっくりと味わいながら考えたいです。興味のある方は気になったシーンについての考察を下の方に書いているので、ご覧ください。

 

みなさん良い一日をお過ごしください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【※以下ネタばれしています。鑑賞後にご覧ください。】

この映画で一番気になったシーンは本当に最後のシーンです。アビゲイルとアン女王、ウサギのそれぞれがクロースアップで撮影された映像を多重露出しているのがとても気になりました。まず、この多重露出のシーンが完成する前に起こった出来事を簡単に説明したいと思います。

 

アビゲイルはアン女王が眠っている寝室で、アン女王が17人の子供たちの代わりとして飼っている17匹のウサギのうち1匹を足で踏みつけます。アビゲイルがアン女王の寵愛を得るきっかけとなったのは、そのウサギをウサギとしてではなく、アン女王の子供であるかのように愛おしそうに抱きしめたことでした。そのウサギがキーキーと苦しそうに鳴く声を聴いて、眠りから覚めるアン女王。アビゲイルの裏の顔を目撃することによって、アン女王は目を覚ますだけでなく起き上がり、アビゲイルに足を揉むように命令します。ここで注目なのは、アン女王がもうベッドやカウチで横になった状態でないという点。アン女王は完全に起き上がった状態でアビゲイルに跪かせて足を揉ませることで、視覚的にアン女王とアビゲイルの明確な主従関係を強調しています。そこには今までの蜜月関係の面影は見当たりません。それはアビゲイルが何かを話そうとするのをアン女王が制止することからも明らかです。

 

そして、いよいよ多重露出のシーンです。アビゲイル、アン女王、ウサギの順番にそれぞれのクロースアップが一つの画面に収まります。アビゲイルの映像が少しずつ溶解し始めアン女王の映像へと移行したときは場面転換を滑らかにするディゾルヴだと思いました。ところが、アビゲイルの顔は消えることなく画面に残り続け、アン女王の顔、続くウサギたちの映像が少し溶解した状態で重なり続けていたので、これは何だ?と混乱してしまいました。

 

なぜこの3つの異なる映像を重ね合わせているのか。おそらく、アビゲイル、アン女王、ウサギを同時に映し出すことにより、何かしらの共通点があることを示唆しているのではないでしょうか。僕はその共通点は「虚しさ」と「囚われの身」にあると考えています。

 

①虚しさ
アン女王が今後アビゲイルに対して心を開くようなことはないでしょう。アビゲイルは自由に発言することを一切許されず、一人の召使いとして宮廷で女王に仕えなければいけない。これまでのアン女王にしてきた努力は虚しい努力となりました。また、愛されることを望んでいたアン女王ですが、17人の子供だけでなく、親友を失い、愛されていると思っていた女性の裏の顔を間近で目撃する羽目になります。アン女王ほど虚しい人はいないでしょう。アン女王は亡くなった子供たちへの喪失感からウサギを飼っていますが、ウサギを人間の子供のように扱ってくれる人をそばに侍らせ、ウサギを子供のように見立てることで喪失感を埋めようとしています。それでもウサギはウサギです。ウサギの存在が虚しくなってきます。

 

②囚われの身
檻の中に入れられれば、本人の意思とは関係なく、そこでの生活を強制され囚われの身となります。ウサギが檻から抜け出せないように、アン女王とアビゲイルも宮廷を抜け出すことはできません。アン女王は国の最高権力者であり、アビゲイルは宮廷を離れたら生活できなくなってしまうからです。鉄格子はないですが、宮廷は彼女たちにとっての檻のようなもの。自由を奪われ、宮廷での生活以外に選択肢などありません。まさしく、アビゲイルとアン女王、ウサギは囚われの身だといえます。

 

アビゲイル、アン女王、ウサギに共通する「虚しさ」と「檻」のイメージを多重露出することによって観客に与えていたのですね。それにしても、これから虚しさを抱えながら檻の中で生活しなければいけない彼女たちのことを考えるとゾッとしますね。ウサギを踏んづけたのを見られてしまったわけですから、今まで通りにはいきません。そう考えると、レディ・サラは「宮廷から追放される」と同時に「宮廷(=檻)から解放され」、むしろ幸運だったのではないでしょうか。レディ・サラがあれだけ潔く安らかな気持ちでイングランド追放を受け入れたように見えたのはそのせいかも知れません。